三宝大荒神

弘法大師が、大同元年(806)唐の国に渡られたとき感得された三宝荒神さんで、当初は御自分の手で座像をお彫りになったと伝えられています。
ある時、このお寺の山の頂に七日七夜にわたり光を放つことがあって、霊地とお感じになった弘法大師は、この地に宝殿を建ててその座像を安置されました。その後代々の帝が信仰を寄せられましたが、後奈良上皇がお姿を写した画像に「泉涌寺大荒神」とお書きになり、そのお姿がこの三宝大荒神座像とされています。
日本最初の荒神さんです。荒神さんを拝むと、幸を招き、悪事災難を逃れるなど様々な御利益があるとされていますが、特にゆな荒神という別名のあるとおり、昔から皇室の方々が安産を祈願されてきました。今現在も、安産のご祈祷を依頼される方がたくさん訪れていらっしゃいます。また、荒神様をかまどの上に安置して、火の用心はもちろん、かまどの火が絶えないよう、その家をお守りいただくようお祀りされているお家もたくさんあります。また、荒神さんのお側には七福神の布袋尊が祀られています。

三宝荒神様の護法神像五体(いずれも重文)もありますが、現在は国立京都博物館に管理を委託しています。

本尊阿弥陀如来

寺伝によると、運慶の作。観音菩薩・勢至菩薩が脇侍仏として控えておられます。

勝軍地蔵尊

大石内蔵助が、吉良邸の討ち入り成就を祈願した念持仏。鎧兜を着けた大変珍しい地蔵様です。

幻夢観音菩薩

霊元天皇の念持仏。厨子(仏像を覆っている観音開きの箱)の扉の裏に漢文でこの観音様の由来が彫られています。それによると、霊元天皇が寵愛された女官で、小少将局という方がお亡くなりになった葬儀の夜、霊元院のお側に幻のごとくその女官のお姿をお感じになりました。よく見るとそこには法華経がおいてあったのでした。これは小少将が信心深く、心が清浄であったからこそこのようにして現れたのだとお思いになり、新たに観音様を造らせました。と、おおよそこのようなことが書いてあります。小少将の局は、この観音様のような美しい方だったのかもしれません。

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